「今を生きる」第106回   大分合同新聞 平成20年11月3日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(22)
 生命誌研究館館長の中村桂子さんが医師教育の現場で浮かび出てきた課題として、次のような相談を受けたそうです。
 「多くの医学生が小さいころ、自然の中で生きものと接していないので、生きもの特有のありようを感じ取ることができない」という『生きものの感覚』と呼ぶ能力の欠如があると……。
 生物学の基礎研究の大きな進展によって、最近の生命科学は、人間を含む生き物を機械のように、いわゆる部品の集まりとしての生き物と見るようになってきているからだろうと言われています。
 時代の流れに敏感で都市化された若い世代は、自然との接触が少なくなりゲーム感覚の仮想現実の中で時間を費やすことの多い、その現代社会の一面が露出してきているのでしょう。
 人間という生物を把握しようとするとき、部品の集まりとしての人間と理解する思考方法は、大事な感情、感性の領域を取り落としてしまう欠点を持っているということです。
 生(なま)の生き物に接していくとき、生き物の予定外の反応や、その反応の複雑・多様性への驚き、戸惑いを通して、決して部品の集まりではないことに気づくのです。まして人間は主観的な感情をもち、自然の中で生き、周囲の状況に応じて常に変化する存在です。
 私が車窓から、外の風景を向こう側に眺める(対象化)ような思考では、自分から遊離したような思考になり、「自分だったらどうするか」(私が問われる、責められる)ということが抜ける傾向になるのです。それは「生きものの感覚」から離れ、人間性を疎外するようになってしまいがちになります。それは人間の分別の傲慢(ごうまん)さ(無明)から起こってくる現象だと仏教は指摘しています。

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