「今を生きる」第108回   大分合同新聞 平成20年12月1日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(24)
 理性・知性での思考を推し進めていけば、人間の理想的な社会を実現していけるという楽観的な思考の中に、現代人はどっぷりと漬かっているようです。しかし、理知分別にも問題があるのです。「否定のない肯定は我執になる」という哲学者の言葉を聞いたことがあります。理性・知性の欠点を十分に心していかないと、人間の傲慢(ごうまん)さで野放しの自然破壊、環境破壊、そして人間性破壊になっていく危険があります。
 理知分別で合理的思考のできる人が有能と判断され、理科系で秀でた人が科学者として尊重されていますが、世界のトップレベルの知性の人たちが欧米でも東洋でも世界中で核兵器や生物兵器などという「人殺しの道具」を作ってきているのです。
 勝つために、自分の主張を通すために、生き残るために、わが身がかわいいために、勝たなければならないという「心の汚れ」が人殺しの道具を作ってしまうのです。人ごとで他者を悪く言っているのではなく、私もそのような境遇にいれば、同じことをする可能性があるということです。
 私だったら絶対にそんなことはしないと言われる人はいるでしょう。意志の強い人です。素晴らしい人だとは思うが、弱い、愚かな人間を抱擁する温かさは出てこないかもしれません。かえってできない人を批判して、差別していく可能性があります。そういう在り方を仏教は「修羅」と言っています。
 われわれの心の汚れ、弱さ、我執をわれわれが自分できれいにすることは可能でしょうか。そのために限りなく努力していくことが大切だ、それが人間というものではないか、と意志の強い人は言うでしょう。
 理知分別は限りなく前向きに進むことを矜持(きょうじ)としているのです。「人事を尽くして天命をまつ」はその象徴的な言葉です。仏教なんかなくても生きていけると、仏教を無視・無関心で生きていくことになっています、仏教はそれを無明といいます。

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