「今を生きる」第109回   大分合同新聞 平成20年12月22日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(25)
 私たちの心の汚れを教えるのが仏教の智慧です。私たちは自分の心がきれいだとは言わないが、あらためて汚れているなんて言われるほどではないと思っています。また善いとは言えないが、みんなと同じくらいで普通ではないかと思っているのです。その証拠に小さい悪はすることもあるが、警察に捕まるような凶悪なことはしてないと言います。
 仏教がいう心の汚れは、表面的な問題というよりは、心の奥に潜んでいる汚れを言い当てているのです。仏の智慧の光は私の心を照らし出して、心の中に潜んでいる汚染を教えてくれるのです。それは場合によれば自分で認識してなかったとらわれを言い当てられて、ビックリする気づきになることもあります。
 その汚れを仏教の深層心理の探求では我痴・我見・我慢・我愛と表現したり、貪欲(とんよく)・愼恚(しんに)・愚痴の煩悩と言ったりしています。人間は順境の時はむさぼり取り込もうとする心が働きます、逆境の時には思うようにならないと腹立ちの心が起こります。
 一時的に心に波風が起こらず穏やかに過ごす時期が続くと、年とともに自分の人格が丸くなって温厚になったかと思ってしまいがちですが、縁に触れるとすぐに潜んでいた貪欲・愼恚の心がたちまち露出してきます。穏やかに対応しようと心掛けていてもこればかりは抑えようがありません。
 あるご婦人が、「仏さんの長年のお育てのおかげで私は腹が立たないようになりました」と僧侶に感想を言われたそうです。それを聞いた僧侶が短刀直入に「うそを言いなさんな」と言われたそうです。するとそのご婦人がすぐに「立腹した」ということを聞いたことがあります。
 われわれは縁次第で自分の心の内部に潜んでいるものが引き出され、すぐに露呈してしまうのです。

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