「今を生きる」第112回   大分合同新聞 平成21年2月16日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(28)
 お釈迦(しゃか)さんは、われわれの心が汚れないように戒律という、いわば大きな努力目標を示されています。そして、その目標を前にした人間が、いかに危ういものであるかということを明らかにしています。人間の心を支配する煩悩(心の汚れ)というものが、その戒律という努力目標を、いつの間にか遠くに押しやってしまう、そういう現実があることにも気づけと、教えてくださっています。
 本来戒律を守る事は、われわれの人生が「むなしい人生」にならないように導くためであり、仏教全般にも、守ることは大事なことと今でもされています。タイ、スリランカなどの東南アジアの南方仏教では、現在でも戒律が厳しく守られています。大乗仏教においては、日本の鎌倉仏教の戒律の内容は大幅に緩和されたものの、江戸時代までは形の上では戒律は守られていたと聞いています。
 戒律は欲を管理するものです。在家と出家の違いは家族を持つか持たないか、すなわち「欲」を認めるか、認めないかということのようです。
 欲を認めるということは、煩悩を肯定することです。仏教に関心を持たない多くの日本人は、無邪気な人間中心主義的思考になり、「この世の楽しみは煩悩を満足させることだ」と思っています。悟った人は、煩悩は身や心を煩わせ、悩ませるものだということに明らかに目覚めています。
 「煩悩がどうして悪いか」「煩悩を満足させる医療でよいではないか」「病気を良くして人並みの生活をさせてあげたい」という声を世俗の医療現場ではよく耳にします。
 煩悩を認めた生活は、煩悩に振り回される生活になり、結果として身や心を煩わし、悩まし、苦悩の生活になります。煩悩が満たされないと苦悩し、満たされたらまた苦悩し、苦悩を免れることができません。
 釈尊はそういう人間の在り方を経験して、見通されて、その苦悩を超える道に目覚めたのです。目覚めの内容は、われわれ人間の分別を超えた世界であったのです。

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