「今を生きる」第113回   大分合同新聞 平成21年3月2日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(29)
 道元禅師の『正法眼蔵』諸悪莫作(しょあくまくさ)の巻に、中国唐代の詩人白楽天と道林禅師の問答が出ています。

白楽天「仏法の大意とはどういうものでしょうか」。
道林「諸悪莫作 衆善奉行」
白楽天「そんなことなら、三歳の童子でもそう言うでしょう」
道林禅師「たとえ三歳の童子が言い得ても、八十歳の老翁も実践することはむつかしい」
白楽天は礼拝して去った。

 法句経には「諸悪莫作 衆善奉行」に続いて、「自淨其意(ごい)、是諸(ぜしょ)仏教」(もろもろの悪をなすことなく、衆々の善を奉行し、 自らのこころを浄(きよ)める、これ諸仏の教えなり)となっています。悪をやめて、善をしていくと心が浄められるということです。これが仏の教えです。
 戒律は心を浄めていく手段、方法なのです。「盗み」は悪ですから、反対の「施し」は善です。でも仏教では、人に物を施すとき「私はあなたにこれをあげた」という意識があっては、善としての施しとはならないと説きます。特に「私」に執着する心、我執(自己中心的な心)がある限り「真の(善なる)施し」とはならないのです。それでも「施し」の実践が説かれるのは、その実践の積み重ねで我執をなくそうとするからです。
 道元禅師は「諸悪莫作」を「諸悪を作ること莫かれ」とは読まず、「諸悪は莫作なり」と読んでいるそうです。これはどのような意味があるのでしょうか。
 古い注釈書には「莫作」を「作ること莫(な)し」と読むのは、我執を克服した人にとっては「『諸悪は作ること莫(な)し』となるからです」と解説されています。道元禅師の「諸悪は莫作なり」の意味は、まさにこのような意味だと思われます。一段高い智慧(ちえ)の次元で表現されているのでしょう。

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