「今を生きる」第114回   大分合同新聞 平成21年3月16日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(30)修正版
 心の汚れ、煩悩をきれいにしていくと、煩悩が消えていき、なくなった分だけ智慧(ちえ)、真理を見極める認識力が現れていく現象を「悟り」ということができるそうです。
 煩悩にも考え方の領域と感性の領域があります。考え方の汚れは智慧との接点があれば次第にきれいになっていきます。考え方の間違いを知らされて正されていく歩みが目覚めの展開でもあるのです。一方、感性の領域は智慧のお育てを受けていっても、生身に染み込んだ心の汚れの取れ方は遅いようです。
 考え方の間違いとは、例えば、世間一般に「生きているのは当たりまえ」と考えて、「死ぬのは偶然」、あの人は運が悪く交通事故に遭って死んだ、あの人は運悪くがんになって死んだ、と考えがちであります。
 仏教の智慧の目で見ると「生きているのは偶然」、生きているのは多くの生き物の命を頂いているおかげであり、有ること難し、ということに驚く見方であり、因や縁が欠けたらゼロ(空)になる、死ぬのは必然、当然、当たりまえ、と考えて生きることになるのです。
 智慧で見ると、「私が行為をするのではない、行為が私を創(つく)ったのです」という意味がうなずけるようになります。私が存在するのは当たり前ではなく、昨日までの私にかかわる種々の因や縁が和合して今日の私、私の命を形作っているのです。そして、今日は私にとって初体験の日を生きているのです。それは創造的な一日だということができるでしょう。1日、1日、死に裏打ちされた「生」を足し算のごとくに人生を歩んでいるということです。
 平均寿命から自分の年齢を引いて、あと何年と引き算したり、未来の不安を取り越し苦労するがごとく愚痴を言って今日を生きるのは創造的ではありません。

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