「今を生きる」第115回   大分合同新聞 平成21年3月30日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(31)修正版
 ある70歳すぎの女性の患者さんが、ご主人が亡くなりしばらくたったので、「一人で静かでいい」、と言われ、その後、「主人が邪魔だったとか悪かったという意味ではないのですが……」と申し訳なさそうに言われました。
 私を煩わせる人がいなければ、寂しい一面と、気楽な一面があります。人との接触の機会が少なくなれば、怒りの心も少なくなります。それは心がきれいになったのではなく、腹立ちの縁が少ないがためです。
 心の汚れ(煩悩)のなかの貪欲(とんよく、むさぼりの心)と愼恚(しんに、腹立ちの心)は、平穏な日常生活では表面にでないのですが、縁に触れるとすぐに出てきます。
 一緒に生活する家族が少なくなると、結果として人間関係の摩擦が少ないことになります。そのために穏やかに日々の生活の中で、自分でも年とともに温厚になったのだろうかと考え違いをしてしまいそうです。しかし、これは一時的な煩悩休止状態ということであって、煩悩がなくなってきたわけではありません。
 人から「腹を立てなさい」と言われても、自分で腹を立てることは至難なことです。しかし、また、自分で腹を立てないように努力しようとしていても、イライラさせる縁が重なって、ガマンの限界を超えるとカッと腹が立ちます。
 仏法の学びをする中で、考え方の間違いに気付かされ、仏の智慧(ちえ)の視点での考え方に目覚め、深められていくと、自分の愚かさがよりはっきりと自覚させられ、間違いが正されてきます。仏法の学びは目覚めが深まる歩みということでしょう。
 そういう歩みをしていても、朝目覚める時は、煩悩を持った生身の私が目を覚ますのです。煩悩が心に染み込んだ私です。だから、感性、感情の領域の汚れがきれいになるのには、かなり時間がかかるのです。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.