「今を生きる」第116回   大分合同新聞 平成21年4月13日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(32)修正版
 仏教の言葉に「預流(よる)」があります。完全な悟り(阿羅漢果(あらかんか))へ向かう聖なる流れに身を預けるという意味で、悟りへの一歩です。
 迷いを繰り返していることを流転といいます。流転はいくら長く繰り返しても流転なのです。それは百年続けても、二百年続けても救いにはなりません。だから、流転している者が流転を止めて悟りへの方向性が定まるということは、画期的ことなのです。悟りへの方向性が定まるということは、救いの大部分が実現したみたいなところがあります。
 心の汚れをとる(目覚め、悟り)方向を考えるとき、自分の努力、精進で汚れを取る方向性が考えられます。小、中、高等学校の道徳の授業で「悪いことはやめましょう、善いことはしていきましょう」というように頑張る方向です。前向きで、積極的で世間的に評価される方向性です。
 もう一つは仏の智慧(ちえ、無量光)に照らされて、自分の心の汚れに気づいていく方向性です。煩悩に振り回されていることを知らされることは、自然と煩悩に振り回されることが少なくなり、智慧が部分的に出現してくる展開になるようです。
 自覚的な表現では、「自分の思い・分別をひるがえして、仏の教えの如く生きていこう」という意志というか、一歩踏み出す勇(いさ)みということができます。消極的で前向きでないように思われますが、結果としてわれわれの迷いを超えて完全燃焼に導くことになるようです。
 若い時代は「廃悪修善」という前向きの方向性が魅力があり、そうなれるように頑張るのが人間じゃないかと切磋琢磨(せっさたくま)しあうことに引かれます。しかし、年を重ねて人生経験を積むと、仏の智慧に照らされる歩みが自分の身のたけに合っていると思われるようになります

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