「今を生きる」第120回   大分合同新聞 平成21年6月8日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(36)
 普段、自分の意識・思考を大切にして我われは生きていると思います。そして自分の思考の世界の中心に自分を据えています。そこでの発想は、問題があれば、それを解決するには「どうしたらよいか」、事を成し遂げるには「どうしたらよいか」、心の安定を得るためには「どうしたらよいか」です。我われの思索から出て来る考えは「どうしたらよいか」であって、自分の思考やその思考過程、分別、心根そのものを問うということになりません。そこでの問題解決の方向性は「心の持ち方」や「実行の内容」ということにとどまって、それを超えた思考や思考の根源を問題にすることにはならないのです。
 私達は反省をするとき、自分からちょっと距離をおいて自分の行動、心の在り方をかえり見て(顧みて)反省することになります。見られる私は確かに客観的に批判される場に置かれるでしょう。しかし、それを見る私は無傷で残るのです。そこで更に見る自分を反省しようと繰り返しても最後に、それを見る自分が頑(かたく)なに残るのです。私を私たらしめている大元を見るということは難しいということになります。
 自分の思考の元、心根の元を自分で問題するということは難しいということです。しかし、仏教の悟り、仏教の智慧(ちえ)は、「目覚める」とか「超える」という表現で、その大元を問題にして、その問題点(心の汚れ、無明性)を指摘しているのです。そんな人間を超えて世界が有るか,無いか、でいろんな意見・考えが出て来るでしょうが。
 われわれの思考を超えた、悟りの内容、智慧の世界を私が分別で分かろうとするのは無理というか、矛盾になります。その世界は分かるというよりは「感じる」、「感得する」、「感動する」、「驚く」、という表現でしか表せないのかも知れません。

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