「今を生きる」第121回   大分合同新聞 平成21年6月22日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(37)
 仏教で人間としての成熟する歩みは、仏教の智慧(ちえ)を身につける歩みであると教えています。智慧のことを無量光で表します。「無」は無いではなく、超えることを表現しています、すなわち量ることを超えたということです。太陽の光は必ず影が出来ますが、無量光の照らしは影なく照らし出すことを示して、無量光としているのです。
 仏教の学びの途中で自分の在り方を問う質問のようなものが提示されます。欲に振り回されている私に「君はそれで良いのか」という言葉です。そうすると「しっかり頑張って、心と行いを正して行こう」と反省するのです。それからしばらくすると「継続は力なり」という言葉に出会って、怠けそうになる心を再度反省、あらためて続けようと心を奮い立たせるのです。その繰り返しをしてかなり落ち着いた頃、「君にまごころはあるか」という言葉に出会うのです。仏法の学びの初心者は、善い心、善い行いをまごころ込めてするようにならなければならないのだと受け取り、ひそかに、さらに頑張っていこうと心するのです。
 そんな紆余(うよ)曲折を繰り返しながら、仏教の学びを続けて(智慧に触れる機会を継続して)いると、その後「君にまごころはあるか」という言葉が以前の受け取りとは違って響いて来るのです。
 大分県下で開催している仏法の学びの集いに五年ほど継続された参加者が、その言葉を聞いて「『私にまごころなし』と感得することができて感動した」という感想を発言されたのでした。初めの頃は、頑張って努力しようとの励ましのように受け取れていたのが、その分別の計らいそのものが照らし破られて(影なく照らされて)「私にまごころなし」と驚く気づき(自覚)に転じていくのです。心の汚れが智慧によって洗われていく歩みが、いつの間にか聞法(法話を聞く)の歩みで展開していたのです。

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