「今を生きる」第122回   大分合同新聞 平成21年7月6日(月)朝刊 文化欄掲載

自分を超えたもの(1)
 日本語には「大きなものは述語になれない」という原則があるとお聞きしています。主語の位置にあるものは述語の位置にあるものより大きいということが原則だということです。
 ある人が「私は親を大事にしています」と表現すると、主語に当たるその人はも体力、財力、能力などで親よりも力がある、大きいということだろうとうなずけます。
 もし、親の庇(ひ)護(ご)下にあったり、親に迷惑ばかりかけている者が「私は親を大事にしています」と言うのを聞くと、「何を言っているの、あなたは親に迷惑ばかりかけているじゃないの」と言いたくなります。
 ある高齢者が「私は仏さんを大事にしています」と言われることを聞いたことがあります。この人は悪気があってそういったのではないのでしょう。ですが、その言葉から分かることは、主語の「私は」は仏さんよりも大きいか、等しいという前提が、本人は意識してないでしょうけど、あるということです。
 すなわち、仏を大事にするだけの種々の力があるということです。力がないことを自覚する者だと「仏さんを大事にしています」ということは、うそになるということが本音で敏感に分かるから、そういう表現をしないのです。
 普段なんとなく使う言葉には、使う人の本音が背後に潜んでいるのです。
 どういう本音か? 仏さんは私が大事にできる範囲の中にあるということです。仏の徳を無量光(智慧(ちえ))、無量寿(慈悲、いのち)で表しますが、無量ということは量が無いではなく、量ることを超えたということを表現しているのです。
 仏は私たち(自分)を超えた存在です。自分を超えたものを私たちは分かることができるでしょうか。

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