「今を生きる」第123回   大分合同新聞 平成21年7月20日(月)朝刊 文化欄掲載

自分を超えたもの(2)
 アメリカ合掌国は大きな面積で、人種のるつぼといわれるくらい世界中の民族が集まって各地の州をつくり、州が集まって国をつくっています。あまりの種々雑多でアメリカという国を表現することは難しいことです。
 アメリカに行ったことや住んだことのある人に「アメリカとはどんな国ですか」と質問するとします。質問された人は、その人の感じたアメリカを表現すると思います。それぞれの個人が感じたアメリカですので、アメリカの一部を表現したことには間違いはないでしょう。100人に聞くと100人の表現があります。各個人が感じたアメリカの真実の姿を伝えているのでしょうが、それはアメリカの全体の姿ではないのです。
 100人に「アメリカの真実の姿を教えて下さい」というと、百通りの真実の姿が出てきます。しかし、本当の真実はそれらの部分の姿ではなく、全体の真実の姿がもう一つあるというのです。百通りの真実と、もう一つの本当の真実があるので、101の真実の姿があるといいます。
 自分の把握能力を超えた大きなものを私が分かったということは無理なことなのです。大きなものは部分的にわかるとか、感じ取るしかないのです。
 もし一人の人が見聞したことをアメリカの真実の姿だと主張すると、多くの人は、アメリカの真実の姿が分からない人でも、それを聞いて「独り善がり」だと判断するでしょう。アメリカの真実の姿を理解しようとするならば、限りなく多くのアメリカの情報を集めながら自分なりのアメリカのイメージを更新して真実の全体像に近づけて行くしかないのです。
 見る目が偏見や我執に汚染されていると、当然、見られたものも、その影響を受けて歪(ゆが)んだものになる危険があるのです。

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