「今を生きる」第124回   大分合同新聞 平成21年8月3日(月)朝刊 文化欄掲載

自分を超えたもの(3)
 通院している患者さんで仏教がなかなか分からない、という人がいます。その人は、「私は仏さんを大事にしていますよ、毎日仏壇に参ってお経をあげています。」「私は神や仏を敬う気持ちはあり、信仰心はあるのですよ」と言われるのです。
 多くの自称”常識人“と思われている人から、同じ趣旨の発言をこれまでたびたび聞いてきました。現代の日本の法律や憲法では、個人の宗教を尊重するとうたわれているが、一方で特定の宗教教育を公教育でしてはならない、と決めており、義務教育期間内には普遍的な宗教にも接点が少ないままの状況で成人することになります。その為に多くの日本人は宗教についての素養が未熟なままであったり、「宗教なしで生きていける」と豪語する人が多いようです。
 宗教に関心があっても、自分のイメージした誤った宗教観をもって、何か自分を超えたもの、偉大なものを尊重する、という自分の気持ちを宗教心と考えて、「私には信仰心はあります」といい、自分の思い、考えは「間違いない」と主張して、その思い(我見)に執(とら)われる傾向があります。普遍性のある宗教は自分の内なる執われからも開放されることを教えて、自由自在に生きるように導いてくれるものです。大きなものに触れたものは必ず頭が下がり謙虚な姿勢をとるのです。
 普遍性のある宗教に触れることのないまま成人した人は現代教育の申し子のごとく、科学的合理思考を基本の思考方法として生きるようになります。そして宗教に対して無知で、時には種々の偽りの宗教(人を自由自在するのではなく、執われの身にする宗教、邪教)に惑わされ、振り回され、迷いを繰り返すようになっていきます。 時には宗教の名をかたる邪教のトラブルに巻き込まれ、マスメディアをにぎわすことになります。

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