「今を生きる」第125回   大分合同新聞 平成21年8月24日(月)朝刊 文化欄掲載

自分を超えたもの(4)
 今年の梅雨明けはいつもと違って8月上旬になってしまいました。自然現象は依然としてまだ人知の及ばない領域です。天気がよくて雨が降らないと、植物を育てている者には、雨が待ち遠しいものです。雨が少なければ井戸か水道の水をまくしかありません。砂地に水を撒くのはかなりの水量が必要になります。それが一雨あるとほっとします。自然の偉大さを痛感します。自然現象のダイナミックな大きさに比べると人間の日々の営みは小さなものです。
 その降り注いだ水も地球上では高い所から低い所へ流れるのが自然です。山岳地帯に降った雨の多くは小川となり、支流から、大きな河となって海に流れ込みます。京都女子大の創設者、甲斐和里子さんの歌に「岩もあり、木の根もあれど、さらさらと、たださらさらと水の流るる」があります。岩や木があってもなお、さらさらと水が流れる。自然の法則に沿って、高い所から低い所へ、障害物があっても水が自在に流れている様を仏教の智慧(ちえ)の世界と二重写しにしながら詠まれていると思われます。
 日常生活での行動や日々の人間関係で、われわれの小賢(こざか)しさで小細工するとします。それが不自然であったり非本来的な行動であったりすると、その小賢しさに自分を振り回されたり、周囲との摩擦(まさつ)や軋(きし)みが現れたりするでしょう。
 大局的にそれを俯瞰(ふかん)してみると、「自然の有り様」のような何か大きな力で、「不自然さ」や「非本来性な行動」が「本来的な在り方」に戻される“はたらき”があるように思われます。それは人間の小賢しさを超えたものと表現せざるを得ないです。そのはたらきを人格的な表現にしたものが、仏さんとか阿弥陀(あみだ)さんということでしょう。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.