「今を生きる」第126回   大分合同新聞 平成21年9月7日(月)朝刊 文化欄掲載

自分を超えたもの(5)
 想定外の大きさに触れるとわれわれは「驚き・感動・感嘆」の表現を自然とします。沸騰させた湯を入れたやかんが食卓の上にあるとします。熱いやかんだと分かっているときは、熱い部分に素手で触ることは避けます。テーブルの上にある熱いやかんに思わず手が触れると即座に「アッチィ」と、やかんから手を離す行動になります。想定を超えたものを感得するときは、頭で分かったという以上に身体全体がビックリした、驚いたと反応するのです。
 仏法の悟りや仏の智慧(ちえ)の話を聞くときは最初は「そんな世界があるのか」、「勉強や修行をしていけばそんなふうになれるのだろうな」、「悟りの内容は難しいな」、「私には出来そうにない」、「そんな手放しするような我には私はなれないな」、「仏教は難しい」、「いろんな考え方があるからな」などなどと、いろんな反応が起こります。
 これらの反応は自我意識が壊れないように無意識のうちに守りながら、向こう側に眺めるかのような反応になっています。仏教の世界から見るとこれは「我見・我執にとらわれている姿」として見ることができます。私が今までの人生で拠(よ)り所として来た自我意識、分別ですから、簡単に自我が壊れたら困るのです、しっかり守ろうとします。
 我われの分別は自分の理解を超えた世界を認めることはできません。それを認めると、分別自体が危うい物になる危険を抱え込む事になるからです。分別は分別の有限性を認めることができない構造になっているのでしょう。
 仏の悟り、目覚めの世界は分別を超えた世界です。目覚めるためには大きなものに出遇(あ)って「ハッとした」、「ビックリした」、「参った」という驚きが大切になるのです。
 圧倒的に大きなものは、我われが分別で分析的に理解しながら全体の把握をすることは非常に難しいことです。自分を超えた、大きなものは「私が感じる」とか「感得する」ということで表さざるを得ないのです。

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