「今を生きる」第128回   大分合同新聞 平成21年10月5日(月)朝刊 文化欄掲載

自分を超えたもの(7)修正版
 通院して来ている患者さんと話をしている中で、その方が「われわれ凡夫には悟ることは難しい」と発言されました。その発言は「自分を超えたもの」を考える上で貴重は内容を含んでいます。
 仏教の世界は光明無量(智慧(ちえ))、寿命無量(慈悲、いのち)で代表的に表されます。「無量」ということは自分を超えたものを表現しているのです。「凡夫」というのは悟りの言葉です。凡夫とは貪欲(欲深い)、瞋恚(腹立ち)、愚痴の煩悩に振り回されて迷っている自分自身への目覚めの言葉です。
 自分自身の煩悩性を照らし出し、気づかせるはたらき、そして、その煩悩性を打ち破って智慧の世界に導くはたらきを「自分を超えたもの」という表現で示しているのです。その大きなはたらきに触れた者は必ず、懺悔(さんげ)(告白し悔い改める)と感謝を伴うのです。
 普通、自分は迷っていると考えていません。迷っていると気づいたら、軌道修正して間違いの無い方向に考え方を変えていくものです。その私が「迷って振り回されている」と知らされると、ビックリして驚くのが自然です。そして、その知らされたことに納得するときは、その知らせてくれたものに「参った」と懺悔することになります。
 自分の愚かさに自分が反省して気づくと、普通は暗い、落ち込んだ気分になりがちですが、思いもしない展開で知らされた者は、あっけらかんと明るく自分の本体(本性)に目覚めることになり、それを知らせてくれたはたらきに感謝の念を持つ展開になるでしょう。
 自分で凡夫と言っている人がそこに懺悔と感謝が伴ってないとすると、それは仏教用語として「凡夫」は知っているが、本当に凡夫と思っていない、ということになります。凡夫と言っている本人の実のある言葉になっていないのです。それぐらい、自分の愚かさに気づくのは難しいことです。

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