「今を生きる」第129回   大分合同新聞 平成21年10月19日(月)朝刊 文化欄掲載

自分を超えたもの(8)
 「われわれ凡夫には悟ることは難しい」という発言から気付かされることのもう一つのことは。「自分に分かるように説明してくれたら分かるはずだ」とか「自分は頭がスマートでないけれど、賢い人が考えたら分かるだろう」という意味で、人間の分別を限りなく肯定しながら「悟るのは難しい」と言われているのです。
 ある識者が「現代人は『説明してくれれば分かる』という傲慢(ごうまん)さの中にいることに気付かない」と言われています。理性・知性・分別をよりどころに思考して生きてきた自分の理解を超えたものはないと考えることはごく自然なことですが、我われの思考方法は、厳密にはある条件(仮説)の上で成立している思考だということです。
 仏教の智慧(ちえ)とか悟りを理解しようとするときには、分別の思考の限界にも注意しないと仏教の理解で大きな間違いを犯す可能性があります。理解が難しいという場合には、複雑で理解がなかなか難しいという面と、思考方法の限界を示している可能性もあるということです。
 エックス線で身体の一部が透けて見えたり、ニュートリノが地球の中を通っていくなんて話は一般人の普段の常識の世界では分からないことです。その説明を詳しく聞いても全部理解はできないでしょう、しかし、その事実の起こっていることにビックリしたと感動します。
 仏教を話題とした会話の中で考えると、思索や修行の真っただ中では「難しい」ということは出てきません。「難しい」というときは、何か超えられない壁に直面したり、「難しさ」を超えていたり、超えつつあるときに、難しい世界が見えるようになっていることを示します。そして、それを超えた世界(光明無量、智慧の世界)を感得している者は必ず、驚きや感動を伴う頷(うなず)きを持つでしょう。

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