「今を生きる」第130回   大分合同新聞 平成21年11月2日(月)朝刊 文化欄掲載

自分を超えたもの(9)
 普段の日常生活で、種々の物事に対応するとき、そのことが私にとって「損か、得か」、「勝ちか、負けか」、「善か、悪か」、「好きか、嫌いか」、「利用価値があるか、ないか」とか、そのことは「正しいか、間違いか」を考えていることが多いと思われます。
 もう一つ気にすることがあります。それは世間の目です。みんなの目は私のことをどう判断するだろうか。「よい評価になるか、悪い評価になるか」ということです。みんなの目とは、隣近所の人の目、親せきの人たちの目、職場の人達の目、漠然とした世間の目です。現実世界を生きる時は世間の目は、考える判断材料の中で、大きな地位を占めています。そして相対的な人間社会の中で、自分という者を比較して納得させるには都合のよい判断材料です。しかし、いざ自分の個人的な問題を具体的に考えて解決をしようとするときに世間の目は頼りになるかというと、ほとんど頼りにはなりません。
 世間のことを仏教では此岸といいます。仏の世界を彼岸といいます。彼岸は具体的な地理的な場所ではなく、仏のはたらきの場を示します。彼岸は此岸のあり方を虚仮(こけ)不実だと照らし出し、知らせるはたらきの場です。
 普段は真実とか真理という言葉はほとんど問題とならないし、話題にあがってきません。日常生活では善・悪、損・得、勝・負、好・嫌、正・邪を一生懸命に考えますが、病や老いで死ぬ間際には、そんなことはどうでも良い(虚仮、不実)となりますよ。終わってみれば、それらに振り回されて生きたことが虚(むな)(空)しいと感じるでしょう、そして生きても生きたことにならない(空過)。「いい生活はしてきたけれど、本当に生きたことが無い」という、ガン末期の患者さんの訴えに似たものになるでしょう。
 此岸の虚仮不実、生きても生きたことにならない事実を気づかせる、目覚めさせる「はたらき」において彼岸は、まこと、真実の世界ということができるのです。

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