「今を生きる」第131回   大分合同新聞 平成21年11月16日(月)朝刊 文化欄掲載

自分を超えたもの(10)
 「この文章の内容は嘘(うそ)(偽り)である」という文章を考えてみます。この文章の言うとおりに「嘘」であるならば、この文章は「真(まこと)」であるということになります。しかし、文章自体が表現していることが真とするならば、「嘘・偽りである」と主張しているのですから、この文章は嘘・偽りである、ということになるでしょう。
 真か嘘か、どちらにも解釈ができるということになります。このことは「真」というも「嘘」と言うも世間では一つの評価表現として使われているということです。
 ある有名な評論家がテレビ討論で、ある事柄について意見を求められて、司会者に「賛成の立場で言えばよいのですか、反対の立場で言うほうが良いのですか」と問い返した、との話を聞いたことがあります。
 医学の研究会でも「80歳以上の高血圧症は治療をしたほうがよいか、しないほうがよいか」の論争が医学関係の新聞に掲載されていました。複数の治療経験の報告(文献)を基に、同じデータを読んで、某有名病院の院長は「治療をした方が良い」と主張し、某有名大学の教授は「治療で良い点、悪い点が相半ばするので、血圧の治療(管理)にとらわれるのではなく、患者の生活の質を配慮する方向に考えるべきだ」と主張した、との内容でした。
 世俗の相対的な判断基準での判断や、複数の要因が複雑に絡む事象の判断は甲乙つけ難いということがあるというのが本当ではないでしょうか。
 分別での判断が難しいときに「歴史に判断をゆだねましょう」と発言するのを聞かれたことがあるでしょう。それは相対的な次元を超えた(上位レベル)判断基準でしか判断できないことを示しています。
 仏教の「目覚め」「悟り」などで表現されていることは、人間の分別を超えた、次元の高いところで判断する事を教えているのです。智慧(ちえ)はどんな疑問にも答えを出します。出す答えは「それしかない」というものです。

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