「今を生きる」第132回   大分合同新聞 平成21年11月30日(月)朝刊 文化欄掲載

自分を超えたもの(11)
 聖徳太子の言葉として「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん」は有名です。世間の世界と仏の世界が並列的にあるような表現になっていますが、対立的にあるのではなく仏の世界(真)が世間(虚仮)を内側に包含しているのです。
 「真」とは仏教では時代を超え、社会を超え、国を超えて、自分も他人も救い、目覚めさせる“はたらき”を表現しています。われわれの世間を超えた普遍性を示しています。時代・社会・国が違って、自他ともに救い、目覚めにならないものは「真」でない、「虚偽、虚仮」だと判断します。
 われわれは「間違いない、善だ」と思っていても、世界や社会状況が変わり、時代が変わると、判断が覆させられることは歴史の上でしばしば見られます。仏の教え、経典に説かれている内容は、世間の生活の在り方に迷いを繰り返しているわれわれの姿を照らし出す鏡みたいなものだということです。ただし、他人を批判したり、判断する鏡ではなく、自分の姿を照らし出す鏡です。
 だから仏の教えを聞いたり、学んでいく歩みでは、常に「自分にとって聞いたり、学んだりしたことはどういう意味があるのか」と考えながら歩んでいくことが大事だと聞いてきました。そして実際、そうだったなと思っています。
 仏教の言葉の表現は、目覚めや悟りの結果から、原因の方を見るという結果論ということが出来ます。「最近の学生は勉強しない」と表現することがありますが、仏教的な表現では「勉強し学ぶ人を学生という」のですから、勉強しないものは学生ではないのです。
 仏教だけが真実というのは仏教の我田引水ではないかと批判されそうですが、教え(光明無量)に照らされ、自分の迷いの相(すがた)、愚かさに確信がもてて、それを知らせる世界の「真(まこと)」に驚くのです。自分の虚仮・不実を気付かせて、同時に救いの世界に導く“はたらき”を「超えたもの」と表現せざるを得ないのです。

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