「今を生きる」第133回   大分合同新聞 平成21年12月21日(月)朝刊 文化欄掲載

自分を超えたもの(12)
 相対的な世間では「いろいろな考え方がありますね」というように100人いれば100人のさまざまな考え方が出てきます。時代により、国や地域により、社会制度により、文化により、「善悪」の判断も異なってきます。
 現代を生きるわれわれは、それらをすべて見尽くして考えて、間違いのない生き方をしたいとは思いますが、「今、ここ」という地域性・時代性の制約を免れることはできません。それ故に、われわれの考え方は普遍性がない可能性があるということです。普遍性がないということは全体を見通した智慧(ちえ)がないということです。
 その上に、われわれの考え方は煩悩に汚染されているために「我」にとらわれた色眼鏡で物を見ているようになっています。どんな汚染かというと、仏教なんかなくても生きていけるという「我痴(がち)」、私の考え方は間違いないとする「我見」、人と比べてゆれ動く優越、劣等感の「我慢」、世間的にきれいごとを言っても心の本音ではわが身が可愛いという「我愛」、これらが汚染の大元だというのです。
 思考に普遍性が無く煩悩に汚染されているがために、少々考えて熟慮したつもりでも、結果として迷いを繰り返すことになっています。そのことに気付けと働きかけている「はたらき」を仏の智慧というのです。
 その「はたらき」に気付くと、われわれは必ずビックリして驚きます。そして自分の思考を超えた大きさに「参った」と頭が下がるのです。同時に自分を超えた世界に出遇(であ)えた感動、喜びを持つようになります。
 仏の智慧に出遇った人の感動は必ず、「懺悔(さんげ)と感謝」を伴うと聞かせていただいています。仏の智慧を頂く「悟り」や「信心」の世界に出ている人は、必ず懺悔と感謝を伴うということです。仏法を伝えてくれる「よき師」の生きざまには懺悔と感謝の雰囲気が必ずともなっています。

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