「今を生きる」第134回   大分合同新聞 平成22年1月11日(月)朝刊 文化欄掲載

自分を超えたもの(13)
 好きか・嫌いか、損か・得か、勝ちか・負けか、良いか・悪いかを考えているときは世間の目を意識して、自分にとってどうか(自我意識の自己中心性)を思考していることが多いように思われます。確かに世の中を生きていく上で大事な視点ですが、60歳を超えてみて考え方に変化が出てきたように思うのです。
 嘘か・真(まこと)か、実りがあるか・空しいか、迷いか・目覚めかを考える視点の方が大切に思えるようになってきたのです。これからどれくらい生きることができるか分らないという私の有限性を切実に感じるようになってきたからであろうと思われます。大事と思われるものは不特定多数の世間の目ではなく、自己を超えたもの、仏の智慧の視点ではないかという思いが深くなってきたということです。
 何を相手に生活しているか、何を大切だと考えているか、何を考える基本に置いているかは、その人の言動に自ずと表れてきます。
 江戸時代の某豪商が遺言状に家訓として、物を大事にしなさい、無駄使いをするな等いろいろ書かれている内容は心しなければならないことが多いのですが、最後の所に「下人、下女(註)は皆、盗人(ぬすっと)と心得べき候」と書き残しています。確かに、厳しい競争社会を生き抜くためにはそれくらいの心構えが必要であったのかもしれませんが、心の寂しさを禁じ得ません。
 一方、ある農政思想家の「この秋は 雨か嵐か しらねども 今日の仕事に 田の草を取る」や宮大工さんの「下手は下手なりに、嘘偽りのない仕事をしておくことです」の言葉は、大いなるものの前で謙虚になる人格者の言葉として、なぜか心を打つのです。
 註;現代でいうと従業員。

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