「今を生きる」第136回   大分合同新聞 平成22年2月8日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(2)
 仏教の学びをするようになってから20年ぐらいした時、大学の哲学の教授より「ソクラテスは死を恐れてなかったのですよ」という言葉を聞いて「エツ!そんなことあるのか」とびっくりした記憶があります。
 ソクラテスは哲学の柱の一つの倫理学(「人間はいかに生きるべきか」「どのように生きていったらいいのか」を考える学問)を始めた人で哲学界の巨星であるといわれています。自身は著作を残さなかったので弟子のプラトンなどの著作によって知られているのです。ソクラテスは70歳になろうとするころ(B.C.399)「ギリシャの神々を冒涜(ぼうとく)し、若者たちを誤った方向に導いた」ということで権力者の反感を買って、裁判にかけられました。裁判では自説を堂々と述べ、自説を曲げたり自分の行為を反省したりすることを決してせず、結果的に死刑判決を受けます。
 死刑判決後、弟子によって逃亡、亡命も勧められましたが拒否しました。牢屋(ろうや)の番人も逃げられるように鉄格子の鍵を開けていましたが、自分自身の知への愛と「単に生きるだけでなく、よく生きる」ことの意志を貫き、脱獄、亡命というアテネの法に対して不正をするよりは死を恐れずに殉(じゅん)ずる道を選んで潔(いさぎよ)く毒杯をあおり、アテネを愛しながら死んでいったと伝えられています。
 死ぬ覚悟が本音でできるというのは、よほどの人でないかぎり、私は不可能なことだろうと思っていました。死ぬ覚悟というのは宗教的に言っても狂信、妄信の人の現象だろうと思っていました。なぜなら、私自身がそう簡単に死ぬ気になれないからです。今後しばらく老病死の受容を考えていきましょう。

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