「今を生きる」第137回   大分合同新聞 平成22年2月22日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(3)
 今、ネズミがいるとする。そのネズミが猫から追われて食われそうで絶体絶命です。この時、ネズミが救われるというのはどういうことか。神様、仏様に祈って、絶体絶命の時に、神や仏が現れて、その猫をやっつけてくれる。そしてネズミの命が助かった。そういうスーパーマン的な何かが来て、自分の問題を片付けてくれる。そういうのを救いと思いがちですが、それが救いであろうか。
 仏教における救いとは何か。ネズミが猫にぶつかった、そして絶体絶命、神様助けくれ、仏様助けて下さいではなく、「これが私の受け取るべき現実である、南無阿弥陀仏」といって悠々と食われてゆく。悠々とネズミが猫に食われてゆく。それが救いなのです。
 なに、それでは一つも助かってないじゃないか。
 そうではない。それが助かっておるのです。みんな、嫌だ、嫌だと愚痴を言って食われていくのです。
 どうしてこんなことになったんだろう。私だけがどうしてこんな猫に食われていくのか。ぶつぶつ愚痴を言って食われていくことが多い。悠々と食われてゆく、悠々と食われてゆくのが救いなのです。「そんなの救いではない」、と言われるかもしれないが、それは大変な救いなのです。
 猫とネズミはたとえであって、われわれ人は猫の代わりに、ガン、病気、災害、地震、倒産、老い、死、いろいろなものから噛みつかれるのです。それを背負ってゆくというか、それをものともせずに生ききり、死んでいく、生死の迷いを超えるところが宗教的な救いです。

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