「今を生きる」第138回   大分合同新聞 平成22年3月8日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(4)
 三木清は人生論ノートの中で「幸福について」の項目で「幸福は人格である。ひとは外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが倒れてもなお幸福である。」と書いています。
 60歳でガンで亡くなった友人の死を、ある知人は、日本人(男性)の平均寿命が80歳を超えようとする現代、「理不尽なる暴挙である」と嘆きました。60歳で亡くなるのが暴挙であるとすれば、いったい何歳だったらよいのでしょうか。
 84歳の男性の入院患者が「もう一回だけ元気になりたい」と訴えますが、「もう一回だけ」と何回も繰り返して10年が過ぎようとしています。どこまで行っても満足は無いのでしょう。満足の無さを仏教では「生死の迷いを繰り返している」と教えてくれています。迷いを超える世界を示唆するかのように三木清は「幸福を武器として闘う者は倒れてもなお幸福に死んでいく」と書いています。
 「幸福を武器とする」ということはどういうことでしょうか。それを考えるヒントは「幸福とは人格である」という言葉だと思われます。教育の目的は知識の伝承と人格の涵養(かんよう)といわれています。後者は人格の成長・成熟ということを示しています。
 現代社会は知識の習得に振り回されて、宗教的な智慧を学び、身につけることをなおざりにしています。「世俗の欲望を追い求めてばかりで恥ずかしい」という世界を見失っているのです。そして智慧がないがために老病死を受け取れなくなっているのです。

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