「今を生きる」第139回   大分合同新聞 平成22年3月22日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(5)
 日本人で60歳を超えた一応健康な人が、これから千年とか一万年生きることができますと言われて、もろ手をあげてうれしいと言える人はどれくらいいるでしょうか。「もう一度同じような人生を生きてください」と言われて、喜んで「もう一度やります」という人はどれくらいいるでしょうか。そう考えてみると、ずっと生きることができる不老長寿に喜びや輝きがあるとは思われません。
 「死」があるからこそ、生きていることを大事にしようとか、生きていることのありがたさに気づくということがあるように思われます。
 生きていることを当たり前、当然のこととして生きると、何か楽しいこと、面白いものはないか、自分の得になるものはないかと自分の外側に対象物を見つけようとします。そういうことを繰り返しているうちに自分自身の老病死に直面するのです。自分の元気であったことを当たり前にして考えると、どうしても自分自身の老病死を受け取れないのです。
 「死にたくない」と思っていても死んで行かなければならないのは、過激な表現になりますが「殺される」ということです。大分合同新聞夕刊連載の「おじさん図鑑」に筆者ががんを患った40歳代の友人を見舞いに行った場面を「『おれ、死にたくないんです。まだ死ねないです。助けてくださいよお』訴え続ける彼から目をそらし、おじさんは心の中でひたすら『頑張れ、頑張れ』と繰り返すばかりだった。」と書かれていました。
 明治時代の学僧の清沢満之は「生ノミガ我等(われら)ニアラス、死モ亦(マタ)我等ナリ」と書いています。ある仏教者はがんの末期に「がんも仏からの頂きものです」「死もいただいたものであります」と言われたそうです。死をも受け取って生き切る世界があるということです。

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