「今を生きる」第141回   大分合同新聞 平成22年4月19日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(7)
 先日、まだ暗い早朝に病院から呼び出しがあり,急いで身支度を整えて病院へ行きました。用事を済ませて外に出ると、ほんのりと明るくなっていました。いつもの通勤道を車で帰りながら見えたのは、いつもの時間帯とは違う風景でした。早朝から散歩をしている人、通勤か通学で駅に向かう人……、自分は住み慣れた風景をよく知っているつもりであったが、時によって、まったく違うことに驚きました。
 われわれは自分で見たものは、しっかり自分で見たと自信をもちます。それらの積み重ねのためによって、「物事を知っている」と考えてしまいます。住み慣れた家の周囲の風景を知っているつもりでも、時間帯が異なった風景や夜行性のタヌミなどが行動している世界は知らないのです。物事を客観的に見て、間違いなく判断していこうというのがわれわれの思考方法です。しかし、物事を十分に見ているつもりでも、ある一面だけのことで、全体像が見えていない可能性もあるということです
 老病死に関しても、「老病」という事柄は自分で経験し,客観的に見るということも可能と思われます。しかし、死だけはそうはいかないのです。他人の死を見ることは医療関係者にはよくあることですが、それは肉体の死であって「自分」という意識の方はどうなっていくのかは見ることはできません。まして経験することは誰にもできないことであります。死とはどういうことか永遠に分からない事項と思われます。それなのに死についての独断と偏見があまりのも世俗では横行して、人々を迷わせています。死ということについての思考するのが哲学、宗教であると思われます。独断と偏見に惑わされないよう、先人の思索を学び、参考にしながら一人一人が考えることが大切と思われます。

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