「今を生きる」第143回   大分合同新聞 平成22年5月17日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(9)
 今年の初め「ふしぎがり 〜まど・みちお 百歳の詩〜」というテレビ番組があったと聞きました。番組を見た知人が感動したというので調べて、見てみました。昨年百歳になった詩人のまどさんは、家族、友人の多くの死を見送ってきたそうです。まどさんは、90歳を過ぎたころ、夕日を眺めてふと気づきました。「今日」という一日の終わりは、どこか「死」に似ている、ということに。そして作られた詩が「れんしゅう」です。
 「きょうも死を見送っている、生まれては立ち去っていく今日の死を」と始まる詩で、なぜだろう『今日』の『死』というとりかえしのつかない大事がまるでなんでもない『当たり前事』のように毎日,毎日くりかえされるのは」不思議に感じています。
 仏教の基本の考え「縁起の法」では、われわれは一刹那(せつな)ごとに生滅を繰り返していると教えてくれます。一刹那は瞬間ですからとらえようがありません。それでわれわれの受け取れる一日に延ばして考えると、朝、目が覚めた時、今日の私が生まれたということです。そして今日の夜、寝るとき今日の私は死んで行くと受け取れます。昨日と今日、今日と明日に区切りをつけることの大切さを仏教は「今日しかない」といって教えてくれています。
 “私”という、とらえどころのない私の意識は夜、眠るときの状態が自分の死ぬ時の意識と似ているのではないかと、まどさんは気づいて驚かれたのでしょう。味わい深い詩と受け取ることができます。
 参照:「れんしゅう」の全部
 [れんしゅう] 「今日も死を見送っている、生まれては立ち去っていく今日の死を。自転公転をつづけるこの地球上のすべての生き物が、生まれたばかりの今日の死を毎日見送りつづけている。なぜなのだろう。『今日』の『死』というとりかえしのつかない大事が、まるでなんでもない『当たり前事』のように毎日,毎日くりかえされるのは。つまりそれは、ボクらがボクらじしんの死をむかえる日に、あわてふためかないようにと、あのやさしい天がそのれんしゅうをつづけて、くださっているのだと気づかぬバカは、まあこの世にはいないだろうということか。」

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