「今を生きる」第146回   大分合同新聞 平成22年6月28日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(12)
 科学的合理的思考での文明の発展、そして先人の苦労のおかげで、衣食住において現代の便利で快適な生活環境が実現できています。科学的合理的思考では種々の事象を説明できる仮説を立てて,法則としてきました。もし、はじめから1万までの事象を仮説に則って説明できたとしても1万1番目の事象が説明できないということになれば、その仮説は捨てられて,新たな事象をも含んで説明できる法則を見出して、より普遍性のある法則を目指すのが人間の英知の発展の歩みでした。
 合理的な思考で確かに便利で快適な生活は実現できるようになりました。しかし、現代人は老病死に直面するようになると、戸惑いの中で右往左往することが多いようです。合理的思考の延長線上では老病死の受け取りが有意義なものになりそうにありません。「役に立たん……」「迷惑をかける」「つまらんごとなった」「仕方がない」という声が高齢者から発せられています。若い世代もそうならないように努力をしています。
 現代人の思考では老病死の受け取りが、いわゆる「あきらめ」と受け取り、有意義な受けとめができないようです。それは現代人の思考が問題を抱えているということではないでしょうか。ある哲学者が、「人生の最後の15年、20年を廃品と思わせる思考は挫折していることの証明だ」と言っています。
 人間に生まれてよかった、生きてきて良かった,死んで行くこともお任せしています、と“生ききる”道を教える仏教。釈尊の目覚め、仏法は現代においても普遍性のある思考を教えてくれていると思われます。仏教の表面だけ見て、仏教を無視しようとする現代人の思考は傲慢ではないでしょうか。以前のカレンダーの標語に『愚かさとは深い知性と謙虚さである』がありました。合理的思考を重視するあまり、生ききることをあきらめてしまうのは残念なことです。

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