「今を生きる」第148回   大分合同新聞 平成22年8月2日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(14)
 普通、われわれは「私が生まれるに先だって宇宙世界があった。その中の地球に,たまたま生まれて来た。そして何十年か、生活して、やがて死んでいく。死んでいくときは私一人である。私が死んでもその後、依然として世界は存続し続け、残された人の生活はそのまま続けられていくだろう」と考えています。
 時代や地域や親を選んで生まれて来たのではありません。気づいてみたら、この国、この地域、この時代、この家庭環境の中に生まれていた。生きていくうえで、死ぬのは本能的に嫌です、死ぬ気が無ければ生きていくしかありません。生きる以上は快適に、自分の思いを大切にして生きたい。
 死というものはできるだけ避けたいのですが、病気をしたり、超高齢になると死と直面せざるを得ません。そうなると最後には、「これが運命だ」「あきらめるしかない」、となりがちです。
 そんな発想には「人間に生まれてよかった。生きてきてよかった。しんでゆくこともお任せしています」と“生ききる”仏教の視点は全くありません。「仏教なんかなくても生きていける。自分の主体性で、自分なりの人生を生きていける」、と豪語するかの如くです。
 しかし、私の理性、知性は最後には運命に主体性を譲り渡さざるを得ないのです。そこで“生ききる”という仏教の発想を持ち得なければ、敗北論者、悲観論者になっていくのです。世間では、文化・文明の発達した今の時代に、今さら神や仏はないと考えるでしょうが、仏教抜きの科学的合理的思考の延長線上に成功体験(現代の日本の繁栄)があるために、その思考の問題性に気付きにくいのです。
 いかに文化・文明が発達しようと、人間の歩みは皆、ゼロから始まるのです。時代性・地域性・社会性を考えれば、われわれの人生はやり直しのできない初体験の一回性を皆、生きているのです。それ故に先人の歩みや仏教に学ぶことが大切だと思います。

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