「今を生きる」第149回   大分合同新聞 平成22年8月16日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(15)
 医療は生きることを輝かせるためには“不老長寿”を目指すことを志向しています。人間の英知を総動員して利用できるものは何でも利用します。その思考の延長線上で、外科領域で先端医療といわれる臓器移植の進んだ米国では臓器移植が「命の贈り物」から、“命のリサイクル”へと、いつの間にか考え方が変化しています。
 病や死に直面している人には不老長寿は確かに救いになるでしょう。しかし、そこそこ健康な高齢者に「不老長寿が実現できるとしたら喜びですか」と質問してみると、多くの反応は「こんな状態がずーっと続くの?」と戸惑いの表情を示されます。不老長寿が必ずしも生きることを輝かすとは限らないということです。
 最近の医学関係の文献を読んで気付くことは、種々の疾病の治療が可能になったとしても寿命の天井は120歳ぐらいだろうと、さりげなく書かれています。確かめることはできませんが、長年の医学・医療の経験から推測しているのでしょう。避けることのできない老病死を見据えながらも、不老長寿を目指す人間の理知分別のジレンマを垣間見るようです。
 老病死が受け取れないのは、「老いによってしぼみ、病によって傷つき、死によって滅びる命を生きている」からだと仏教の智慧は指摘しています。そう言われても、われえわれの理知分別は「それ以外に考えようがない事実ではないか」と反論します。しかし、仏教は、老病死の受け取れない原因を「われわれの理知分別の思考や智慧のなさにある」と教えるのです。
 理知分別の知恵は、生命現象の知見を増やすことで問題解決の糸口を探そうとします。一方仏教の智慧はわれわれの理知分別の限界性に光を当てて、「知恵があると思っていたが世界の本当の全体像が分かってなかった」「浅い表面的な受け取りしか出来てなかった」と気付かせ、目覚めさせ、愚かさを超える仏の智慧を身につける人格に変容させようとするのです。

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