「今を生きる」第150回   大分合同新聞 平成22年8月30日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(16)
 老病死を受けとめる私とはどんな私でしょうか、「我思うゆえに我あり」と頭の中の脳に「私」と思う中枢があると考えています。だから脳死臓器移植という発想も出てくるし、医療現場での蘇生(そせい)術では脳への酸素供給は最優先項目です。
 私の行動や思考は「私の思い」から出発すると考えています。そんな思いが物心ついた頃から、今日まで経験や知識を増やしながら続いてきているという実感があります。そんな私は衣食住を確保しながら、健康で長生きを考えることはごく自然なことです。そこそこ満たされた日常が続くと日常性に退屈を覚えることもあります。
 そこで非日常を過ごそうと職場での旅行を考えたりします。先日、職場の旅行があり、私も参加しました。ホテルでの夕食は食べ放題、飲み放題のコースです。非日常を味わってもらおうと係りの職員が選んでくれました。
 私を含めて、家事から解放された参加者はなおさらのこと、準備された種々の料理に群がって次々と皿に取り、飲んで食べることを堪能します。あれもおいしそう、これも珍しい、満腹になっても食後のフルーツ、ケーキと、ついつい食い意地を張って食べてしまいました。
 「いただきます」と言って食べ始めますが、食べなければ、飲まなければ損と考えている私の発想に、食べ物の命や生産者の御苦労、料理してくれた人のおかげを考える余地はありません。飽食の後、温泉にも入り、至れり尽くせりの非日常を過ごしました。まるで天国みたいと世間では言うでしょう。
 仏教では天国を人間の迷いの世界と教えています。天国の中の一番上を他化自在天といいます。他人が準備して主人公の如く振る舞うことのできる世界です。しかし、天国であっても迷いの世界であるのは、「天人五衰」(欲界の天人が命が尽きようとする時に示す5種の衰亡の相)という問題を抱えているからでしょう。仏典には天国から転落する苦しみは地獄の苦しみの16倍と書かれています。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.