「今を生きる」第153回   大分合同新聞 平成22年10月18日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(19)
 「健康で長生き」を目指す人にとっては老病死は困ることであります。「生命の尊厳」ということで生命を尊重する、そして「長生き」とが結びついて、生命の生きている時間を延ばすことが生命の尊厳を尊重していることだと考えるようになります。人間は食べることができなければ、次第に衰え死ぬことは自然のことでした。それが中心静脈栄養、経管栄養という医療技術が発展して食べない、飲まない状況でも生きることが可能になってきました。
 私の受け持っている介護療養病棟では、ほかの医療機関で胃瘻(おなかの中の胃と皮膚の間に管を設置して、栄養を注入する瘻孔)をつくり、それを使った経管栄養の患者さんが半分ぐらいいます。最近は内視鏡を使って以前よりは容易に胃瘻をつくることが可能になりました。しかし、胃瘻を造った患者さんのその後の経過を知るようになると、胃瘻をつくる医師のほとんどが「自分にはつくって欲しくない」と言っているという本音を聞く機会がありました。
 食べることのできない急場を、胃瘻を造ってしのいで,後に再び社会復帰できるようになり自宅退院した患者さんもありますが、大多数はその後、加齢や病状が進んだり、合併症を発症したりで全身状態が悪くなって死亡ということになります。
 確かに経管栄養によって多くの高齢者が生命を延ばすことができ、日本の平均寿命を延ばすことに貢献していると思われます。寝たきりや意識障害のある患者さんが経管栄養によっての延命を願っていたかどうかは不明のことが多いです。家族の場合にはしてもらうが、自分のときにはして欲しくないという人が多いように思われます。多くの医師が自分にはして欲しくないということは、胃瘻による経管栄養の長所・短所をよく知っているうえでの総合的な判断をしているからではないでしょうか。多くの関係者は本音と建前との間の葛藤(かっとう)に苦しんでいます。

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