「今を生きる」第155回   大分合同新聞 平成22年11月15日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(21)
 家庭や職場や公の場の中に「死」がなくなろうとしています。ある僧侶が毎年、敬老の日にお年寄りを招いて保育園で敬老会をするのだそうです。その時に必ず次のような話をするそうです。
 「みんな今日は大好きなおじいちゃんやおばあちゃんと一緒で嬉しいね.敬老会とはね、おじいちゃんおばあちゃん、長い間ご苦労さんありがとう、ということです。おじいちゃん、おばあちゃんは、もうすぐ死ぬんです。お別れしなくてはなりません。だから大切にしてください。でもこれはおじいちゃんおばあちゃんだけではありませんよ。皆さんだって、いつ死ぬか、急にお別れをするか分かりません。だからいのちを大切にしましょうね。」
 おじいちゃんおばあちゃんを前にして、「もうすぐ死ぬんです。お別れしなくてはなりません」というと、お母さん方が目尻をつり上げて、さあ大変……という雰囲気になるのですが、子どもたちは普通に聞いていてくれて、分かり過ぎるほどに分かってくれる反応を示すのだそうです。私たちが、いかに「老・病・死」をないこととして生きているかを思い知らされるエピソードです。
 現代人は、使ってよい言葉、使ってはいけない表現を無意識のうちに選び、使い分けているのです。言葉が使われないということは、その言葉の持つ意味や考え方もなくなるということです。つまり「死」がないのです。「老」も「病」もないかの如くです。人間は死なないのでしょうか。老いもせず、病気にもかからないのでしょうか。
 ある講演録に「人間、一番確かなことは年を取るということです。その年を取るということを辞書で調べると、年とは『実り』とあります。『ああ年をとっちゃった』ではなく、『また今年も実りを手にすることができた。なんとうれしいこと』と、とらえ方で人生がぜんぜん違いますよ。」という文章がありました。

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