「今を生きる」第158回   大分合同新聞 平成23年1月10日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(24)
 神社への初詣に多くの方が出かけるようですが、何をお願いしましたか。普通、無病息災、家内安全、商売繁盛、願い事成就がその内容の多くではないでしょうか。八百万よろずの神といいますが、人間の欲望の数だけ神様が存在するのだそうです(人間の欲が神様を必要としてつくったのかもしれません)。
 60歳を過ぎると老化(加齢)現象があちこちに出て私を苦悩させますが、老化(加齢)を止める祈願、お札(ふだ)は見たことがあるでしょうか。神様といえども時間の経過を止めることはできないと人間は考えて、そんな不可能なお願いはしないのでしょう。神様の力も及ばない加齢をどう受けとめていくかは大きな課題です。
 加齢現象を悔やむ人は多いのですが、年の経過とともに今まで気付かなかった世界を知らされるということもあります。仏教の智慧との接点を持つとさらに広く、深く気付かされるように思われます。例えば生きていくためには、あれもこれも必要と思って多くのものを取り込もうとしてきましたが、大きな家も掃除が大変だ、土地も管理が大変だと実感するようになります。
 仏教の言葉に「有田憂田。有宅憂宅。無田亦憂、欲有田。無宅亦憂、欲有宅(田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。田なければまた憂えて田あらんと欲す。宅なければまた憂えて宅あらんと欲す。)」があります。
 このように釈尊はわれわれ人間の心のありさまや迷いのさまを見透かされておられたのだと、たびたび驚かされることがあります。
 そんな繰り返しのなかで、仏教、仏の智慧の学びは人間として成熟への歩みであり、加齢は決して悪いことばかりではなく、迷いを超えて生ききる人間成就の道でもあると知らされてくるのです。

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