「今を生きる」第161回   大分合同新聞 平成23年2月21日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(27)
 分析的に細分化し単純化して、原因と結果を考えていく因果律の科学的思考は物事の本質を見極めることに大きな貢献をしてきました。科学的思考と勤勉さが今日の日本の物質的な繁栄のもとになったと思われます。
 この思考は見えるもの、触れるもの、数字や形で表せるものを確かのものとして尊重する思考です。その思考では「生きているうちが華だ、死んでしまえばおしまい」「生きているうちに楽しまなければ損だ」「利用できるものは何でも利用して…」などの考えになりがちです。
 そして死ぬ原因の病気を治癒して生きている時間を増やすことが大事だと考えて、老・病・死をいかに受けとめるかよりも、病気を治療することに注意がいってしまいます。その結果、救命・延命の対応がなされていくのです。「人間として生まれた」ことが死亡原因の大本であるということを忘れてしまっているのです。
 病気は人間が死に至る多くの要因(縁)の中の一つです。人間に生まれたことが死ぬことの根本原因だとの大局的な見方が展開されるとき、縁の受けとめ方が変容します。体の異常である病気は死ぬ縁であるけれども、その体は今まで私を生かして、支えてくれていた存在でもあったのでした。昼夜を分かたず私を支えてくれている心臓、肝臓や肺にお礼を言ったことがあるでしょうか。
 そもそも私が両親から人間として生まれるということ自体、遺伝子の組み合わせの確率からいうと七兆分の一という限りなくゼロの可能性から生まれたのです。私が生まれること自体が“あること難し”だったのです。
 私の現在の「ありさま」をあるがままに見ることのできない欲(煩悩)の濁った目で見るから、私は迷いを繰り返すのです。それが老病死を受けとめることのできない理由ではないでしょうか。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.