「今を生きる」第162回   大分合同新聞 平成23年3月7日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(28)
 ある仏法に縁のある家族で、小さな子どもが遊び疲れて帰ってきました。そして疲れたので足が痛いと訴えたら、母親が「足を出してごらん」と言って子どもの足をもんであげながら「足さん、ありがとうね。坊やの身体を支えてくれて、遊ばしてくれてありがとうね。もうちょっと頑張って、夜まで坊やを支えておくれね」と言って数分間、足をマッサージしてあげました。そうするうちに、坊やが自分で足をマッサージしながら親と同じように足にお礼を言うようになり、足の訴えをあまり言わなくなったといいます。
 われわれは常日頃、自分の足にお礼を言っているでしょうか。支えてくれ、歩き、走ることのできることを当たり前のことと考えて、足の健常なことをありがたいなんて考えもしないのではないでしょうか。ある家庭で宿泊をさせてもらった時、その家庭の靴がきれいに磨かれていることにぶっくりしました。それと同時に私の靴の手入れの悪さを気付きました。まして靴に体を支えてくれてありがとうとお礼を言うなんて考えたこともなかったのです。
 仏教では物事のあり方の真実を無常、無我といい、「縁起の法」では見える命は見えない命によって支えられていると教えてくれています。仏教学の某先生が「この頃、命の尊いということがしきりに叫ばれるけれども、原始経典を見ると命の尊厳ということは一カ所も説かれていない。何が説かれているかといえば、無常ということだ」と言われていました。
 仏陀(ぶつだ)は、しっかりした確固不動の命の私というものはなく、私という存在は無我であり、この常ならざるものという、その命の事実を「無常」と説いたのです。必ずしも命の尊厳については、説いていないのです。
 われわれは無常なるものと知らないで、いつまでも変わらない私がある、そして元気で病気でないことが当たり前、普通であると決めているから、“おかげさま”の世界が、命の“有り難さ”が分からないのです。命が無常であると本当に知られたら、今の命がどれほど尊い、掛け替えのないものであるか、明らかになるのではないでしょうか。

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