「今を生きる」第163回   大分合同新聞 平成23年3月21日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(29)
 教えはその教えを受けとめる人があって、はじめて教えとなります。仏教では「無常」ということを教えますが、それは現代の科学的な思考と矛盾することはありません。しかし、その無常を受けとめる立場によって、クールに客観的にいのちの在り方を見詰めて虚無的になる場合と、無常だから与えられたいのちを大切にしなければと考える場合と、受け取り方の違いが出てくると思われます。
 仏教は本人の気づき、目覚め、悟りの世界を教えてくれていて、倫理道徳のように世の中のため、世界の平和のためにという功利的な教えではなく、個人の深い目覚めに導く教えと私は受け取っています。だから人に強制したり、押し付けたり、善いことを求めるのではなく、自然と自覚することを尊重します。
 ある方が「無常であるが故に、命は尊いのではないですか。われわれは無常なるものと知らないで、いつでもあるものと決めているから命の“有り難さ”がわからない。命が無常であると本当に知られたら、今の命がどれほど尊い、掛け替えのないものであるか、明らかになるのではないですか。」と仏教の師に言いました。
 すると師は「それは教えというよりも、教えに出遇い、教えを聞いたものの領解である」と答えられています。教えは聞く者があって、聞き、熟慮を通して自覚することによって初めて教えとして「はたらいた」ということになるのです。
 いのちや病気をどう考えるか。健康でいること、元気でいること、若さを維持できることが当たり前のことと考えていると、加齢現象によって苦しい症状や病気になることは困ったことになります。煩悩(欲)が眼を濁らせると、「なぜ私はこんな病気になったのだろう」「よくならないのではないか」「役に立たないようになった」「死ぬのではないか」「どうせ死ぬなら早く楽に死んだ方がいい」などと愚痴の繰り返しになっていき、老・病・死の受け取りが難しくなっていきます。

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