「今を生きる」第164回   大分合同新聞 平成23年4月4日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(30)
 仏教の智慧は、私の直面する現実が私にとって都合の悪い事象であっても、そのことを転じて意味のあるもの(徳、善)となす転成(てんじょう)の「はたらき」に導くものです。
 ある識者から、「仏教は単に視点を変えるだけでしょう」と言われたことがありました。その時にすぐにその発言に適切な対応はできませんでしたが、十数年を経た今、「視点を変える」ということに浅い、深いがあるように思われるのです。
 あるラジオ放送で人生相談の番組があり、主婦が「うちの旦那は年収数百万の価値しかありません…」という発言に、回答者が「そうではないのです、数百万の利子を生みだす存在ですから、数億円の価値がある存在ですよ……」と答えたのを聞いたことがありますが、これは浅い視点の転換でしょう。
 仏教の教えは、単に視点を変えるのではなく、われわれの思考の基本的な基盤を問題として指摘するのです。「どういうふうに問題か」と問われれば、自分が分からないために、世の中の全体像が見えてないという指摘です。そう言われてもすぐには納得できないでしょう。
 人間は生まれ、生きて、老いて、病んで、死んでいくように生まれているのです。「それは分かっている」と思われるでしょうが、自分も老いて、病んで、死んでいくのだと分かっているでしょうか。われわれの思考は自分を除いた、私から外側を見る視点です。自分が思考の中で除かれているのです。
 そう指摘されても「自分のことは自分が一番よく知っている」と反論があるでしょう。もし自分のことをよく分かっている、この現実を一番よく知っているというのならば、直面する現実が私にとって都合の悪い事象であっても、それを受けとめて悠々と生きることができるはずでしょう。
 できないとすれば、頭ではわかっているが身体全体では納得できてないということでしょう。身体全体で納得できていないことを仏教では知っていると言わないのです。
 仏教の智慧は、老病死も意味のあるものとなし、身体全体で老病死する自分になり切って、自然にお任せして生き切る世界に導いてくれるのです。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.