「今を生きる」第165回   大分合同新聞 平成23年4月18日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(31)
 物事を「知る」ということについて、仏教では身体全体で知ること、感得することを仏教では大事にします。例えば、焼け火箸は“熱い”ということは頭でわかっていますが、本当の熱さは分かりません。焼け火箸に触って“アチィ”と身体全体で感得した時、本当に「知る」のです。
 人生のいろいろな経験を積みながら、頭や知識として知ってはいたけれど、身体全体で納得できてなかった、と思うことは時々経験するのではないでしょうか。人生経験を積むと、老いること、病むことは時々身体全体で経験することはありますが、「死」だけは生きている間には経験することはありません。しかし、死に近い経験で、多くの人に共通していることは、夜、眠ることではないでしょうか。
 解剖学者の養老猛司先生は、夜に眠ることで、毎日意識の死を経験していると言っています。百歳を超えた詩人のまどみちおさんは朝と夜があるということは、一日の誕生と終わり(死)に似ている、と言います。地球の自転公転で昼夜が繰り返されているのは、生まれれば、やがて死ぬのだということを受けとめる練習として、自然がわれわれに与えてくれている現象と受け取ってもよいのではないだろうかーと詩「れんしゅう」で教えてくれています。
 私も毎朝、目が覚めた時、「今日のいのちをいただいた。南無阿弥陀仏」と一日の出発とし、夜、布団の中で休む時に、「今日の私はこれで死ぬんだ。南無阿弥陀仏」と“死ぬ練習”をしています。
 宗教というのは、自分の実人生において実験をしながら身体全体で確かめていくことを大事にしていると受け取っています。
 医療・介護・福祉の現場で老病死の受容が難しくなっている現代という時代性を考えると、“死ぬ練習”を毎日実験することをお勧めしたい。

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