「今を生きる」第167回   大分合同新聞 平成23年5月16日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(33)
 自分にとって困ったこと、都合の悪いこと、世間で悪いと言われる事象が起こったり、思い通りに行かなかったりと、私が今まで「悪」と思っていたことに、いや応なしに直面するとき、仏教の智慧によって受け取り方が変わります。これを転成(てんじょう)と言います。
 われわれはその現実から逃げたい、避けたい、なかったことにしたい、先送りしたい、どうして私にこんなことが起こったのか…等々、心の中は悪戦苦闘です。転成とは、そのときに、その現実に意味を見いだす思考です。「転悪成善」といって悪を転じて善と成すのです。言い換えるならば、われわれの受け取り方に問題があることを教える智慧です。
 しかし、考え方を変えたぐらいで、悪が転じて善に成るなんて、そんな生易しいことではないと普通は考えます。それは「教え」というものの本質を知らないからです。「教え」とは「教えて……しむ」という使役の意味が本来あるのです。教えに遇(あ)っても私は変わらない、と思っているのは、現代の教育が人格を成長・成熟に導くということを忘れて、知識を学ぶ場になっているからです。現代は知識教育全盛の時代のように思われます。
 私自身も受験勉強に明け暮れた高校時代、知識の習得にまい進した大学時代を考えると、人格性に教育が関係するなんて思ってもいませんでした。仏教に出遇ってみて初めて、人間の人格性は変化していくのだということを思わせていただくようになりました。
 哲学者、三木清が著作「人生論ノート」の「幸福について」という項目で「幸福とは人格である」と書いています。これは、幸福とは仏教の智慧を身につけた人格に成ることを示唆しているのです。智慧をいただく者は現実の受け取りが転ぜられるのです。

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