「今を生きる」第168回   大分合同新聞 平成23年5月30日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(34)
 われわれは、私を取り巻く外の状況、自然環境、経済状況、社会環境、治安の良さ、家族環境、住居の状態、地域社会等々が私の好ましい状況ならば幸福と感じると思います。そして好ましい状況を整えるために日々努力をしているのが我々の日常生活です。
 その内情を良く見てみると、私の思い、願い、欲望の満たされることを満足、幸福と思っているということです。われわれは潜在的に心の中では、この世で利用できるものは何でも利用して、自分の思いを実現したい、幸福になりたいと思っているのではないでしょうか。
 ですが、哲学者、三木清は「人生論ノート」で「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと等々、幸福はつねに外に現われる。単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。おのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である」と表現しています。
 前回、紹介した「人生論ノート」にある「幸福とは人格である」ということは分かりにくいと思いますが、内面の充足感は、自然と外面に現われてくるのです。
 さて、先の統一地方選がりましたが、候補者が神社仏閣で当選祈願をしたとします。その時に「私を当選させてくれ」と願うことは、結果としては「他の人を落選させてくれ」とお願いするということです。利用できるならば神も仏も利用して自分の思いを実現しようという心根です。他人の不幸を願うような人をわれわれは尊敬できるでしょうか。そのような人格の持ち主を幸福だといえるでしょうか。
 世の中は勝ちか負けかしかないのだから、仕方がないことであって、そこまでひねくれて考えないでも良いではないですか……という声が聞こえてきそうですが…。
 幸福ということと老病死の受けとめ、死の不安の解消は密接な関係があるので、続けて思考を進めていきます。

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