「今を生きる」第169回   大分合同新聞 平成23年6月25日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(35)
 60歳を超えてきますと、同世代や知り合いの死亡のたよりが時々あるという現実は、生きて存在していることが当たり前ではない、私が生かされていることが、「あること難(かた)し」の事実であると知らされます。そして、当たり前と思っていたことが決して当たり前ではなかった、多くの恵みや多くの人のおかげで生かされてきていたことに気づかされてきます。
 気づきには理知分別による場合と、仏教の智慧(ちえ)による場合があります。両者の違いは仏の智慧による場合は感謝と懺悔(さんげ)を伴うということです。
 私の意識は生まれてから死ぬまでしかないと考えますが、私のいのちは生命の成り立ちから考えると、地球に生命が誕生してから約40億年(諸説あり)の歴史を背負っているのです。なぜなら、40億年の生命連鎖の途中で途切れなかったということが今日の私のいのちをつくってくれているのです。この地球上で現在、生命現象を続けている動植物の全てが途絶えることなく共通の生命の連続性を生きてきて、歴史の最先端に存在しているのです。
 また、今日の私の存在はこの地球や宇宙と密接な関係性を持っています。地球の裏側や宇宙のはての出来事は私と関係ないと言いたいのですが、それは関係性の濃淡の違いというだけです。
 仏教では「縁起の法」の考え方で「私の、今、ここのいのちの一点に一切の歴史、一切の世界が成就している」と受け取ることを教えてくれています。そして種々の因や縁によって「生かされている」と気づくことは目覚めとも言えます。その感動は「ありがたい、申し訳ない」と感謝と懺悔を伴い、「生かされている限り精いっぱい生きていきます」と展開していくでしょう。生かされているということは必ず「役割」「仕事」「使命」が与えられて存在しているのです。

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