「今を生きる」第170回   大分合同新聞 平成23年7月4日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(36)
 われわれは足りないものを補うために種々のものを自分のものとして取り込もうという欲があります。それは足りていてもたくさんある方が何かと役に立ちそうという気になって、さらに自分のものにしようとする思いに展開していきます。
 自然界に生活する動物はある一定量以上の食べ物を食べないようにホルモンでコントロールされているといいます。しかし、人間は意思があって、本能的な制御の働きを圧倒して、思い方が優先されていきます。役に立つものを必要以上に取り込もうとする性質を仏教では餓鬼根性ということができます。幼い子どもが自分の欲しいものを手に入れようと駄々をこねてあがいている様(さま)のようなものです。別の表現で言うと「私有化」ということができます。
 われわれは学校で先生から種々、教えてもらって勉強してきました。しかし、いつの間にか私が勉強して覚えたのよ、と自分のものしてしまいがちです。「仰げば尊し我が師の恩……」とは卒業式で歌うときだけになってしまっているのを「私有化」と言います。
 「私のいのちは私のいのち」と私有化する時には「生かされている」という発想にはなかなかなりません。話を聞いてみて、そうか「生かされている」のかと思うけれども、「私のいのち」と言いたい、というところがあります。そのような思いがあるのは、頭では「生かされている」と理解しているけれど、身体全体では納得していないからです。「生かされている」ということを身体全体で感得する時は必ず、感謝と懺悔(さんげ)が伴うのです。
 物事の真実といいますか、あるがままの事実に気付くときには、その結果として、あるがままの事実を受け取ることができる方向にわれわれの思いは変化していくのです。それが出来ないのは、われわれの自我意識、煩悩まみれの迷いの心があるがままの事実を受け取れないのです。煩悩にどう対応するかが宗教の課題です。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.