「今を生きる」第171回   大分合同新聞 平成23年7月18日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(37)
 われわれの意識には「良いとこ取りをしよう」という根性が染み込んでいます。取り込むことが骨の髄まで身についているのは、「貪欲(とんよく)」という煩悩だと仏教は教えてくれています。われわれの「餓鬼性」の正体であると教えているのです。
 「生かされている」という考え方も理解できるけれど……と思いながらも、意識は高みの見物のように周囲を見まわしながら、虎視耽々(たんたん)と自分の利益になるものは、考えであれ、物であれ、利用できるものは何でも取り込んで利用しようと思っているのです。
 そこには私にとって「損か、得か」「勝か、負けか」「善か、悪か」という計算が素早くなされているのです。これを別の表現でいうと「小賢しい」と言います。賢いのだけれども、賢さが執(とら)われているのです。狭い局所については分かっているようだけれど、物事の全体が分かっていないために判断が迷っていくと、仏の智慧は指摘しています。
 取り込もう、取り込もうとする存在を仏教では「餓鬼」と言います。それはまだ人間になれてないことを示しています。「私は人間として生まれています」と言いたいのですが、仏の智慧の目で見ると「餓鬼」だということです。
 「餓鬼でどうして悪いか」と居直りをしたいのが私の心です。仏教は善い、悪いを言っているのではないのです。餓鬼の生き方をすると、どこまでも「足りない、足りない」と迷いを繰り返し、このことがうまくいけば幸福になれる…、明日こそ思いが実現できるであろう…、と死ぬまで幸福になる準備ばかりで明け暮れると言い当てるのです。
 まして幸福になる準備の途中に、思わぬ「老・病・死」に直面すると、「何で私が!」と戸惑い、苦しみ、不安に覆われ、挙げ句の果てには「神も仏もあるものか」と愚痴を言います。
 そんなわれわれに仏教は「老・病・死につかまり迷いを繰り返しながら不幸の完成で人生を終わるのではないですか」と注意を喚起して「目を覚ませ」と教えてくれているのです。

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