「今を生きる」第172回   大分合同新聞 平成23年8月1日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(38)
 われわれの理性・知性は無意識のうちに煩悩に汚染されているのです。仏教の智慧は煩悩の汚れに気付かせる働きです。そしてわれわれをより理性的・知性的にさせる働きと受け取ることが出来ます。
 智慧に照らされて「生かされている」ことに目覚める者は、生かされていることへのお礼に精いっぱい生きることを果たすのです。「生かされている」ということは、この世での与えられた役割がある、生かされていることで果たす使命がある、との気付きにつながるのです。「しあわせ」を漢字で書くと「仕合わせ」です。これは、与えられた「仕」事や「仕」えるべきものに出「合った」という意味に受け取ることが出来ます。
 与えられた仕事は自分にとって好都合の物ばかりではないでしょう。時には思わぬ病気、事故、さらには寝たきり状態や認知症ということもあるでしょう。この世での仕事が終われば仏さんがお迎えに来ると言うのです。生かされている限り仕事が与えられているのです。この世での使命、仕事、役割を果たすまで生ききっていくのです。
 悟りや信心の世界では、生きるも死ぬも仏さんにお任せ、私は生かされていることを精いっぱい生ききって、あとは仏さんにお任せします、となるようです。しかし、これは気付き目覚めの内容であって、他人へ強要するものでは決してありません。
 われわれは何に仕えているか。私の思いや欲ではないでしょうか。煩悩まみれの私の思いや欲であれば、迷いを繰り返すしかないでしょう……。
 仏教は常に私を照らす鏡であり、私を目覚めさせる教えです。その結果、老・病・死をも受け取れるというか、意味あるものとして受容する道に導いてくれるのが仏教です。

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