「今を生きる」第173回   大分合同新聞 平成23年8月22日(月)朝刊 文化欄掲載

老病死を受けとめる(39)
 われわれは自分の頭でしっかりと考えて、確かなもの、信頼できるもの、役に立つものを積み重ねるかのように人生を営んでいきます。その人生の中に不確かなものを取り入れることは自分の分別が許しません。われわれの分別は自分の身体の責任者として責任を果たそうと努力していますから、訳の分からないものを取り入れることはしないのです。
 老病死の課題に直面しても、仏教にその課題を尋ねていこうという発想にはなかなかならないようです。それは生老病死の四苦に対する解決の道筋を教えるということに関して宗教界への評価が世俗では低いからでしょう。
 神社仏閣に初詣などで家内安全、商売繁盛、願い事成就を願うのですが、それがかわなかったとしても、約束違反とか、契約不履行でトラブルになるということは聞きません。人々の心の底には、頼りになるもという評価はされていないということです。宝くじと同じように当たることはまれであって、当たればもうけものという感じでしょう。初詣が現在のような行事となったのは、明治時代に鉄道会社が乗客を増やすためにキャンペーンをしたことに始まりがあるように、いわばお正月の一種のファッションですから。
 世俗での仏教に対する評価も同じようなレベルで考えられていると思われます。まして仏教という名前を語りながら多様な姿を世間に表したり、マスコミをにぎわす宗教絡みのトラブルの記事が仏教への評価を落とすことになっていますから、関わらない方が無難という発想です。
 仏教への世間一般の評価や仏教への理解の難しさは、仏教の内容に理由があるように受け取られますが、仏教の内容というよりは世俗のわれわれの方に問題があるのです。仏教への理解が間違っていることに大きな原因があるのです。そう言われてもなかなか耳を傾けないでしょう。それぐらいわれわれは思考に自信があり、間違ってないと確信しているのです。しかし、それが囚(とら)われなのです。

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