「今を生きる」第180回   大分合同新聞 平成23年12月5日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(7)
 仏教は慰霊祭を行っているではないか、霊を認めているのではないですか、という疑問が必ず出てきます。神道は“何か大いなるもの”として人間霊や自然物霊を言うようです。仏教伝来以前から日本にあったアニミズム(自然崇拝・精霊崇拝)に融合するような形をとって仏教が日本の中に入り込む方法を取ったのです。そのために外に表れる姿はその地域の習俗・宗教の形を維持しながら、その内部の心の領域に入り込んできたという歴史があるために起こっている現象です。
 仏教がインドから中国・日本に渡ってくる間に、その各地の地域文化・宗教の影響を色濃く含んでしまっているのです。日本の現在の仏教的な行事で普段にわれわれが目にするもの(葬儀、法事など)の半分以上は仏教の教えに本来ないものです。しかし、形は種々の様式を取っても内容は仏教の心を伝えようという心のこもったものです。
 仏教では、無数の因や縁が仮に和合して現在の私が“現象”として存在する、そして一刹那(せつな)ごとに生滅を繰り返しているのが私という存在で「無我」である、と教えています。そのために霊という固定した存在を示す言葉を仏教は使うことはありません。ただし、他宗教との交流や日本文化との対話の中で、霊とか魂という表現をすることは時々みられますが、基本的には私という存在は「無我」であり、固定的な存在を否定しています(無常)。そこでは「私」とか「私の物」というような執着すべき存在はないと教えてくれているのです。
 そんなことを言っても現に「私」や「私の物」はあるではないですか、と言うでしょう。仏教は固定した変化しない「私」は無いと言っているのです。だから、若くて健康でしっかりした私があると囚(とら)われたり、それを頼りにしたり、継続しようと苦労するのは無駄な努力になりますよ、と指摘するのです。健康で長生きを願う私の在り方の迷いを言い当てているのです。

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