「今を生きる」第182回   大分合同新聞 平成24年1月9日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(9)
 非常に健康に留意されて治療を受けている60歳前後の男性患者に(十分な人間関係ができた後)、「健康によく気を使っていますね。健康で長生きしてあなたは何を実現したいのですか」と聞いたら、「それがまだ分からないのですよ。それを今、探しているんです」と言われたことがあります。
 一般の考えでは、生きることの目的なんて固いことは考えずに、生まれてきた以上生きているだけであって、死ぬ気になれないし、自分で死ぬ勇気もない、「命あっての物種」ということわざもあるように、生きていると、きっと未来に何かいいことがあるだろう、という発想でしょう。
 その場合は、「今」ではない、将来の満足を追い求めているということです。「今」は将来のための準備の「今」としての位置にあるということです。
 若いうちはそれでもよいかもしれませんが、60歳、70歳を過ぎても未来の満足・充足を追い求めるとしたら、それは問題ではないでしょうか。明るい未来のために「今日を生きる」とか「今、生きている」ということになっているのではないか、「生きる」とか「生きている」ということが目的の位置になってないのではないか、ということです。重要なのは、「今」「今日」を目的のように大切にすることではないでしょうか。
 明日のため、未来のため、といつも将来が目的であるかのように、今、今日を生きる生き方は、終わってみると、空しい、生きたという実感がない生き方になることを仏教は空過流転の虚しい生き方と指摘しています。
 生きることの充実感は「何のために生まれてきたのか?」「何のために生きているのか?」と自問して、今を生きることの「意味」を強く感じたり、今、生きていることの「有ること難し」とか「生かされている」ことを実感できるときに感じる感覚でしょう。
 医療文化が準拠する科学的合理主義では、生きることの意味とか生きていることの充実感ということは計測不可能な領域で、それは患者個人の主観の領域であり、医療人の関わる領域ではないとされてきました。それよりは客観的に評価のできる医学的な救命や生物学的な死を先延ばしする延命に取り組んでいるのです。

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