「今を生きる」第187回   大分合同新聞 平成24年3月19日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(14)
 梅の花のきれいな季節を迎えています。私が紅梅を観賞するとき、その事象を科学的に説明すると、見ている私がおり、私の眼のレンズを通して網膜に紅梅の像が写ることで脳内に認識が起こるということになります。そのとき、「紅梅が咲いている」と客観的に認識したということができます。他の多くの人もそう認識するだろうと考えることができます。みんなが同じように見えていると思うことは、自分の見えたことの「確かさ」を保証してくれるような思いにさせてくれます。
 その見方は別の言い方では「対象化」ということができます。対象化というのは、私が紅梅を向こう側に眺めるとき、見る私と、見られる紅梅は別々の二つの存在であるという見方です。
 見る私、すなわち自我意識は自分を問うことは少なく、自我意識の関心事はどうしても外の事象に向かっていきます。私を取り巻く人間関係、家庭状況、社会的・経済的状況、そして自分の身体状況などを分析的に細分化(分別)して考えて状況判断をしていきます。自分の思いや都合のよいことを追い求めることに熱心で、自分の周囲を自分好みに変えようとしていきます。私と私の周囲の状況は別々の存在だと考えるからです。
 一方、自我意識の内面、すなわち私や他人の心は周囲の人には見えません。そのために自我意識は、この世は表面的な“たてまえ”を尊重した世界だと考え、表面をできるだけ取り繕って、外面(そとづら)をよくして生活をしていきます。心の内面は対象化して客観的に把握しにくい領域であり、自分の心の内面・本音の部分は他人に見せたくないので自我意識はひたすら隠して平穏・温厚を装います。あたかも善良な市民であり、何もやましい心を持ってないかの如くであります。
 このわれわれの普通の思考方法の依(よ)っているところが対象化であり客観性です。同時にそれが医療文化の基礎でもあります。この思考の問題点が仏の智慧の視点でいろいろ見えてくるのです。

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